パワハラ加害者が“看護師”になった理由。元部下の自死、“出来る”上司の「その後」の生き方

編集部注(重要):この記事にはパワハラの加害、自傷・希死念慮、精神医療に関する記述が含まれます。読み進めることで精神的な苦痛を感じる可能性がある場合は、無理をせず閲覧を控えてください。また、現在深刻な悩みを抱えている方、支援が必要な方は、以下の窓口や医療機関へご相談ください。

  • 救急通報:119(日本の救急)
  • よりそいホットライン(一般社団法人 社会的包摂サポートセンター)
  • 地域の精神保健福祉センター、または精神科・心療内科

【本記事の取材・検証について】
本記事は、対象者である太一氏(仮名)より提示された当時の「社内処分通知書(出勤停止3ヶ月)」、および「看護師国家資格免許証」「看護学校卒業証明書」を編集部で確認の上、構成しています。また、文中に登場する元部下のご遺族からは、匿名を条件に、当時の状況および太一氏が発言することについて事前の同意を得ております。プライバシー保護のため、一部の固有名詞を伏せ、時系列を調整しています。

この記事で取材したのは、かつて“できる上司”と呼ばれた 太一さん(45歳・仮名)です。38歳のときに部下の退職を招き、社内調査の結果、指導が問題視された――その後、当該の元部下が自ら命を絶ったことを知った彼は、41歳で会社を去り、看護の道へと進みました。本稿は、彼の「後悔」がどのように日常の行動へと結びついたのか、被害を受けた側が抱く「本当に変わったのか」という問いに、遺族や同僚、専門家の証言を交えて検証します。被害を受けた側が抱く「本当に変わったのか」という問いに、できるだけ誠実に答えることを目指します。

【インタビュー】パワハラ加害者が「看護師」になった理由。元部下の自死、“出来る”上司のその後

都心から少し離れた、私鉄沿線の駅前にある静かなカフェ。窓の外では、アスファルトを濡らす細かな雨が街の輪郭をぼかしていた。薄暗い午後の光が落ちる窓際の席に、太一さん(45歳)は静かに座っていた。きちんと整えられた髪型に、どこか品のあるやわらかな物腰。かつて大手企業の最前線で何十人もの部下を指揮し、「エース」と呼ばれていた男の面影は、今の穏やかな表情からは想像もつかない。

しかし、彼が語り始めた言葉は、その穏やかさを切り裂くほどに鋭く、重いものだった。これは、有能さを武器に戦ってきた男が、自らの加害性に打ちのめされ、泥の中を這いずりながら見つけた、終わりなき「贖い(あがない)」の記録である。


全能感という凶器。数字がすべてだった「王様」の時代

編: 38歳の頃、太一さんは大手ITコンサルティング会社で非常に高い評価を得ていたと伺いました。当時はご自身のことを、「優秀である」と定義されていたのですか?

太一さん: むしろ逆で、「自分はごく普通の人間だ」と思っていました。それが一番の過ちだったんです。特別な才能があるわけじゃない、ただ当たり前の努力をして、当たり前に結果を出しているだけだ、と。だから、部下が結果を出せないのを見ると、能力の差ではなく『やる気』や『誠実さ』が足りないのだと決めつけてしまいました。「俺にできることが、なぜお前にはできないんだ?」という問いは、当時の私にとって純粋な疑問であり、揺るぎない正論だったんです。

編: 自分の「普通」を、他人の「限界」の上に押し付けていたのですね。

太一さん: はい。当時の私にとって、人間は『目標を達成するための機能』でした。だから、基準に届かないパーツ(部下)があれば、強く叩いて直すのが教育だと思い込んでいた。深夜まで詰め寄ることも、人格を否定するような言葉を投げることも、彼を『普通のレベル』に引き上げるための必要なプロセスだと信じて疑わなかった。その「普通」という物差しが、どれほど相手の首を絞める凶器になっていたか、当時の私には想像すら及ばなかったんです。

編: その「正義」が、一人の部下の方を辞職に追い込んでしまった。その事実を突きつけられた時のことを教えてください。

太一さん: 人事部から呼び出され、パワハラを認定されたとき、最初に出た言葉は「なぜだ?」でした。厳しく接したのは彼のためだ、と。出勤停止処分を受けても、まだ「会社は現場の厳しさを分かっていない」と憤慨していました。保身ばかり考えていて、辞めていった彼がどんな夜を過ごし、どんな思いで退職届を書いたのか、想像することさえ拒絶していた。自分の正しさが崩れるのが、何よりも怖かったんだと思います。

編: その時はまだ、自分の「加害」を認めていなかったということでしょうか。

太一さん: そうですね。むしろ自分を『厳しくも熱心な指導者』だと悲劇のヒーローのように捉えていた部分すらありました。今振り返ると、その傲慢さこそが最大の罪だったと感じます。相手を自分と同じ人間として見ていなかった。ただの駒として、自分の有能さを証明するための道具として扱っていたんです。


届かなかった絶叫。私の「正しさ」が彼を殺した

編: 処分が明け、異動を経て仕事を続けていた2年後。彼が亡くなったという知らせが届きます。その時、太一さんの世界はどう変わったのでしょうか。

太一さん: ……世界が、止まりました。共通の知人を通じて彼が自死したことを聞いたとき、心臓を直接素手で掴まれたような、形容しがたい衝撃がありました。遺書はありませんでしたが、ご家族から聞いた話では、彼は会社を辞めてから一度も、心から笑うことはなかったと。うつ病を患い、部屋に閉じこもり、自分の不甲斐なさを責め続けていた。「あの子はあの会社に入ってから、表情を失くしてしまった」――ご家族のその言葉が、鋭い刃物のように私の心臓を貫きました。

編: 自分の「指導」が、時間をかけて彼を追い詰めていたのだと。

太一さん: はい。私が放った言葉の一つひとつが、2年という月日をかけて、ゆっくりと、しかし確実に彼を殺したのだと、その時ようやく悟ったんです。殺意があったわけではない、なんて言い訳は通用しません。私は、自分の傲慢さで一人の人間を抹殺した。その事実を飲み込んだ瞬間、自分が築いてきたキャリアもプライドも、すべてが汚泥のように感じられました。

編: その後、太一さんご自身も心身を崩されたそうですね。

太一さん: 夜、暗い部屋にいると彼の声が聞こえるようになりました。責める声ではないんです。ただ、私が彼に浴びせた罵倒が、自分の耳の中でリフレインする。幻聴だと分かっていても止まらない。次第に会社へ行くことができなくなり、無断欠勤を繰り返すようになりました。41歳で会社を退職したときは、もう自分という人間が粉々に砕け散った後でした。かつて自分が軽蔑していた『動けない人間』に、私自身がなってしまった。それは、あまりにも残酷で、しかし妥当な報いだったのかもしれません。

元同僚・Aさんの回想:
「彼は……亡くなった彼は、太一さんの前ではいつも、謝る必要のないことまで謝っていました。太一さんの正論は、反論の余地を一切残さない。逃げ場を失った彼が、デスクで震える手を押さえながら、必死にキーボードを叩いていた背中が今も目に焼き付いています。私たちは、怖くて声をかけられなかった。太一さんの『有能さ』という光が、彼を深い影に追い込んでいくのを、ただ黙って見ていただけでした」

太一さん: ……その影を作っていたのは、私です。当時の医師の診断では『重度の抑うつ状態』。暗い部屋で一人になると、自分の罵声が耳の奥で鳴り止まないんです。本人の主観的な感覚に過ぎないかもしれませんが、あれは脳が壊れた音だったのだと思います。かつて彼が、同じように夜の静寂の中で、私の言葉に耳を塞いでいたのだと思うと、息ができなくなりました。


41歳の転向。言葉を捨て、脆い肌に触れる世界へ

編: 退職後、まったく未経験の看護の世界を選ばれました。なぜ、あえて「ケア」の現場だったのでしょうか。

太一さん: 会社を辞めた後は、廃人のようでした。でも、死んで逃げることもできなかった。そんな時、ふと思ったんです。言葉で人を傷つけ、一人の命を奪った私が、唯一この世界で生きていくことを許される道があるとしたら、それは言葉ではなく『手』で人に触れる仕事ではないか、と。もう二度と、言葉で誰かを動かしたくない。ただ、目の前で苦しんでいる人の震えを、この手で直接受け止める仕事。それが看護でした。

編: 41歳での専門学校入学は、相当な覚悟が必要だったかと思います。

太一さん: 周囲は親子ほど歳の離れた若者ばかりで、最初は浮いていましたね。学費を稼ぐための深夜の警備アルバイトは肉体的にも限界でしたが、それは自分に課した『刑罰』のようなものでもありました。むしろ、体が悲鳴を上げているときだけ、自責の念から少しだけ解放されたんです。教科書を開くたび、かつて部下に強いた不条理な学習量を思い出し、また自分を責める。そんな日々の繰り返しでした。

編: 学校での学びや実習を通じて、どのような気づきがありましたか?

太一さん: 看護実習で、末期の患者さんの体を拭かせてもらうとき、その方の肌の冷たさや脆さに触れて、涙が止まらなくなったことがあります。自分はかつて、部下の心がこれほど冷え切っていたことに、なぜ気づけなかったのか。彼の尊厳を、私は土足で踏みにじっていた。病院のトイレで、自分のあまりの浅ましさに嗚咽を漏らしました。その時、初めて「人間として生き直す」とはどういうことか、その入り口が見えた気がしました。


沈黙のケア。かつて「非効率」と切り捨てた時間の重み

編: 44歳で免許を取得し、現在は訪問看護師として働かれています。病院ではなく「訪問」を選んだのはなぜですか?

太一さん: 病院という組織の中ではなく、その方の人生が凝縮された『生活の場』に踏み込みたかったからです。訪問看護は、効率とは真逆の世界です。ある患者さんは、一時間ずっと私の手を握っているだけで終わることもあります。かつての私なら『時間の無駄だ、もっと生産的なことをしろ』と切り捨てていたでしょう。でも今は、その沈黙の中にどれほどの重みがあるかを知っています。誰かの孤独に、ただ寄り添うこと。言葉にならない絶望を、否定せずに横で聴くこと。それが今の私の、すべてです。

編: 患者さんの手を握る時、どのようなことを考えているのでしょうか。

太一さん: 正直に言えば、今でも彼(亡くなった部下)のことを思い出します。あの日、彼に差し伸べられなかったこの手を、今は別の誰かのために使う。それが免罪符になるとは思っていません。でも、こうして誰かの肌の温もりを感じ、その方の『今』を支えることだけが、私がこの世界に居させてもらう唯一の理由なんです。彼に対する申し訳なさは、消えることはありません。だからこそ、今目の前にいる患者さんのケアを、一秒も疎かにはできないんです。

編: 訪問先での具体的なエピソードで、印象に残っているものはありますか?

太一さん: 頑固で誰の助けも拒んでいた独居の高齢男性がいました。かつての私なら『言うことを聞かないなら勝手にしろ』と見捨てていたでしょう。でも、何度も通い、ただ彼の話を聴き、足を洗う。そうした時間を重ねるうちに、彼がふと『あんた、いい手をしてるな』と言ってくれた。その時、救われたのは私の方でした。私はこの手で、かつて人を壊したけれど、今は人を温めることができるのかもしれない。そう思えた瞬間でした。


対策という名の「形骸化」。支配のステージから降りるための孤独

窓の外では、細かな雨が街の輪郭をぼかしていた。太一さんは冷めかけたコーヒーを一口含み、カップの縁をなぞる。その指先には、かつて部下の退職届を無造作に突き返した傲慢さはなく、どこか祈るような慎重さが宿っていた。

編:現在はハラスメント防止の教育現場にも携わっていらっしゃいますが、世間一般で行われている「ハラスメント研修」や「対策マニュアル」は、当時の太一さんのような加害者の目に、どう映っていたのでしょうか。

太一さん: ハラスメント研修。そんなもので私のような人間は止まりません。あの頃の私は、組織が配るマニュアルを『弱者が有能な人間を縛るための足枷』だとさえ思っていた。自分の成果がすべてを正当化してくれると信じて疑わなかったんです。正論という名の凶器を振り回している間、私は支配の快感に酔いしれていた。それは、どんなシステムでも容易には解毒できない、毒のような全能感でした。

編:会社が用意した「相談窓口」などのシステムも、機能していなかったのでしょうか。

太一さん:システムそのものはあっても、私のような人間が組織の上に君臨している限り、部下はそれを使えません。私が日頃から『チームの団結』や『プロとしての覚悟』を説き続けていれば、相談窓口に逃げることは『チームへの裏切り』であり、『自分の甘さを露呈させること』だと、部下自身に自覚させてしまう。ハラスメント対策という『仕組み』がどれだけ整っていても、加害者の側が『自分は正しい、これは指導だ』と確信し、成果という免罪符を持っているうちは、その仕組みをすり抜けることも、あるいは自分を正当化するために利用することさえできてしまう。それがパワハラの本当の恐ろしさです。


墓前に捧げる一生。許されないまま歩む「規律」の先へ

編: 毎年、部下の方の命日にはお墓参りに行かれているそうですね。そこでは何を伝えているのですか?

太一さん: 何も、伝えられません。墓前に立つと、言葉が喉に詰まるんです。「ごめんなさい」と言えば、自分が許されたいだけのように感じる。看護師として頑張っていますと言えば、手柄を報告しているようで虫酸が走る。結局、一時間くらいただ黙って、彼のお墓の前で立ち尽くしています。沈黙の中で、自分の手の温かさと、彼がもう持っていないはずの体温を対比させることしかできません。

編: 許される日は、来るのでしょうか。

太一さん: 許される日が来るか、ですか。……それは、私が決めることでも、社会が決めることでもないと思っています。ご遺族の心の中には、今も消えない痛みがある。第三者が安易に『もう十分償った』と言うことは、二度目の加害になりかねません。だから私は、自分自身に『一生許されない』という規律を課しました。それは絶望ではなく、私が一人の人間として、誠実に生き続けるための唯一の錨(いかり)なんです。

編: 許されないことが、生きる理由になる、と。

太一さん: はい。許されないからこそ、私は今日も、誰かの震える手を握り続けます。あの日、彼に差し伸べられなかった手を。この不自由な孤独こそが、私が彼に対して捧げられる、唯一の真実だと思っています。

編: 最後に、かつての太一さんのように、自分の加害性に苦しんでいる方へ、言葉をいただけますか。

太一さん: 「許されたい」という願いを捨ててください。犯した罪は、消えません。でも、その罪を背負ったまま、別の誰かのために手を動かすことはできます。死んで逃げるのではなく、一生許されないという重みを引き受けて、それでも他者のために汗をかく。それが、加害者が最低限支払うべき『孤独なコスト』だと思っています。きれいごとではなく、その泥臭い執着の中にしか、人間としての再起はない。私はそう信じて、今日も訪問先へ向かいます。


編集部後記

インタビューを終え、店を出ると雨は上がっていた。太一さんの言葉は、重く、苦い。しかし、彼が選んだ『ケア』という過酷な現場での日々は、単なる自己満足のボランティアではなく、自らの加害性を冷徹に見つめ続けるための修行のようにも見えました。臨床心理の専門家によれば、加害者の真の更生には『自分の行為が取り返しのつかないものであったという絶望』を引き受けるプロセスが不可欠だと言います。彼が背負う『一生、加害者である』という看板。その重みこそが、他者の命に触れる際の、何よりの優しさの源泉になっている。そう感じざるを得ない取材でした。

彼の「償い」が完結することはありません。しかし、彼が今日も誰かの手を握り、静かに呼吸を合わせる。その一分一秒の積み重ねこそが、失われた命への、彼なりの最も誠実な対峙の形なのかもしれません。この記事が、今どこかで自分の言葉に怯え、あるいは過去の罪に震えている誰かの、一筋の光になることを願って止みません。

※お送りいただいたメッセージは、編集部にて大切に拝見いたします。

ひとりのレッスン

ひとりのレッスン編集部

「ひとり」は弱さではない。 けれど、弱さでもいい。 人生の午後を歩む、40代・50代のあなたへ。

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