かつて、誰かの生活を支えることに人生のすべてを捧げていた一人の男性がいました。40代、元・介護福祉士。現場責任者として奔走し、プライベートでは一児の父。しかし、完璧であろうとした歯車は、ある日突然、悲鳴を上げて止まりました。
燃え尽き症候群、妻の多額の借金、そして離婚。すべてを失った彼がいま、ヘルメットを被り、フードデリバリーのハンドルを握りながら見つけた「小さな再生」の物語。冷たい雨の中で語られた、切実で温かな独白をお届けします。
目次
【インタビュー】燃え尽き、借金、離婚。すべてを失った40代男性が「配達」で見つけた、父としての再生
康夫さん(仮名・40代)
元・介護福祉士。現在は都内でフードデリバリーに従事。1年前に離婚。離れて暮らす6歳の息子との面会交流が、今の生活の唯一の灯火となっている。
深夜の帰宅と燃え尽き。介護のリーダーが「動けなくなった」朝
窓の外は、冷たい雨が降り続いていた。待ち合わせ場所に現れた康夫さんは、少し色褪せた、しかし防水性の高そうなデリバリー用のジャケットを着ていた。その表情は一見、穏やかだが、目の奥には容易には拭い去れない疲労の色が滲んでいる。
聞き手(以下、編): 今日は雨の中、ありがとうございます。配達、大変だったのでは。
康夫さん: いえ、こちらこそ。雨の日は注文が多いので、実は稼ぎ時なんですよ。でも、こうして温かいコーヒーを飲みながら話す時間は、今の僕には贅沢ですね。
康夫さんは、冷えた両手でカップを包み込むように持った。その手は、かつて多くの高齢者を支え、ケアしてきた手だ。
編: 以前は介護福祉士として、現場の責任者をされていたんですよね。そこから今の生活に至るまでには、相当な葛藤があったのでは。
康夫さん: 介護の仕事は、高校を卒業してからずっと続けていました。やりがいはありましたよ。誰かの役に立っている実感がありましたから。でも、30代後半でユニットリーダーになってから、何かが変わり始めました。
康夫さん: 現場のシフト管理、後輩の指導、ご家族への対応、そして慢性的な人手不足。夜勤明けでも、トラブルがあれば電話がかかってくる。自分の時間は一切なくなりました。妻と息子が寝静まった深夜に帰宅し、這うようにベッドに入る日々。ある朝、目が覚めたとき、本当に「体と心がパズルのようにバラバラになった感覚」がして動けなくなったんです。天井を見つめたまま、涙だけが溢れてきて……。
医師から下された診断は、重度の燃え尽き症候群と抑うつ状態。休職は不可避だった。
妻の多額の借金と信頼の崩壊。感情が死んだ「返済」の日々
編: 休職中に、さらに過酷な試練が重なったと伺いました。
康夫さん: はい。家計の不安もあり、妻と将来のことを話し合おうとしたんです。その矢先、偶然、妻が隠していた多額の借金が発覚しました。
康夫さんの声が、微かに震えた。その時の衝撃は、未だに彼の中で生々しい傷跡として残っている。
康夫さん: 消費者金融数社からの督促状が、クローゼットの奥から出てきたんです。総額は、数百万円。夫婦で組んでいた住宅ローンにも食い込んでいて、放っておけば破綻する状態でした。問い詰めても、妻は泣くだけで理由は曖昧。その時、僕の中で何かが『プツン』と音を立てて切れました。
編: 追い打ちをかけるような展開ですね。どうやって返済したのですか。
康夫さん: 休職中の傷病手当金は、返済で一瞬で消えました。手元の貯金を吐き出し、親に頭を下げ、大事にしていた車も売りました。あの時期は、感情が死んでいましたね。自分がなぜ生きているのか、これからどうなるのか、そんなことは一切考えないようにして、「目の前の数字を消す」だけの機械になっていました。
「返済が終わったとき、残ったのは空っぽの関係だけだった」
編: 借金を肩代わりしたことが、皮肉にも離婚の決定打になったのでしょうか。
康夫さん: そうですね。返済が終わった時、家の中には静寂だけが残っていました。借金そのものより、「最も信頼していたパートナーに、人生を根底から壊された」という絶望感です。もう、以前のように笑い合ったり、将来を語り合ったりすることはできない。お互いに消耗しきって、別々にやっていくこと以外に道はありませんでした。
介護を離れ、あえて選んだ「透明人間」としての働き方
離婚と同時に、康夫さんは長年暮らした家を出た。息子さんの親権は元妻が持ち、康夫さんは都内の古いアパートで一人暮らしを始めた。
編: 体調が回復した後、介護の現場ではなく、あえてフードデリバリーを選ばれています。
康夫さん: 正直、今のメンタルでまた人の命や生活を預かる責任には耐えられない、という恐怖があります。介護の仕事に戻りたい気持ちもありますが、もしまた燃え尽きてしまったら、今度こそ立ち上がれない。今の僕には、「誰かの人生を背負う」ことが重すぎるんです。
康夫さんは、自嘲気味に笑った。
康夫さん: 配達の仕事は、誰とも話さなくていいし、自分のペースで動ける。ヘルメットを被ってしまえば、僕は社会の中で「透明人間」になれます。NewsPicksで戦っているような『成功者』たちの高説を聞く必要もない。何より、「急に息子に会えることになった」という時に、すぐにハンドルを切れる。今の僕にとって、収入の安定よりも「息子との時間を死守すること」が、自分を繋ぎ止める唯一の手段なんです。
耳が痛くなるほどの静寂。台所に並ぶ「半分だけのおかず」
編: 孤独を感じる瞬間は、やはり夜ですか?
康夫さん: ……(少し沈黙して)夜ですね。一番きついです。家の中が、耳が痛くなるほど静かなんですよ。介護施設にいた時は、夜勤でも誰かの気配がありましたが、今は完全な静寂。
康夫さん: 一番辛いのは、長年の習慣で、無意識に「二人分のおかず」を作ってしまう時です。炒め物を半分だけ皿に盛って、残りをフライパンに置いたままにした時、台所に並んだ半分だけの皿を見て、「あぁ、もう誰も帰ってこないんだ」と突きつけられる。面会が終わって、息子を送り届けた後の帰り道の虚しさは、何度経験しても慣れません。
息子がくれた歪な折り紙。父であることを思い出すための儀式
編: その孤独の中で、康夫さんを支えているものは何でしょう。
康夫さん: 部屋の棚に飾った、息子が折ってくれた歪な形の折り紙です。「パパ、飛行機だよ」って、面会の時にくれた。それを眺めている時だけは、自分が『ただのデリバリー運転手』ではなく、『父親』であることを思い出せます。
康夫さん: あとは、本当に些細な「自分ルール」ですね。「脱いだ靴を揃える」「コンビニの店員さんに『ありがとうございます』と言う」「毎朝、必ず窓を開けて空気を入れ替える」。世界から自分が消えてしまいそうな時、そういう小さな規律だけが、「自分はまだここにいる」という証明になる気がして。
編: 『ひとりのレッスン』らしく、読者にもできる習慣を一つ教えていただけますか。
康夫さん: 寝る前に1分だけ部屋を歩きながら、今日あったことを3つだけ声に出して言うんです。
- 「今日、息子と公園の滑り台を滑った」
- 「配達中に綺麗な夕焼けを見た」
- 「晩ごはんは、焦げたけどカレーを作った」
康夫さん: 良いことも悪いことも、ただ事実として口に出す。そうすると、頭の中に渦巻いていたドロドロした感情が、少しだけ「ただの出来事」として整理されるんです。自分という人間の形を、毎日少しずつ確認していくような作業ですね。
弱さを認める勇気。靴を揃える一歩から、人生はやり直せる
編: 最後に、かつての康夫さんのように、一人で抱え込んでいる男性たちへメッセージをお願いします。
康夫さん: 男性って、自分の弱さを打ち明けるのが下手ですよね。僕もそうでした。『強くなければならない』というプライドが、自分をさらに孤独にする。でも、「寂しい」とか「助けて」と思うのは、決して恥ずかしいことじゃない。
康夫さんは、コーヒーカップを置き、真っ直ぐに聞き手の目を見つめた。
康夫さん: 家族も仕事も失って、どん底に見えても、靴を揃える一歩からやり直せます。もし今、真っ暗闇の中にいるなら、まずは自分だけの小さなリズムを見つけてほしい。誰の心にも、まだ捨てきれない「大切な何か」が残っているはずですから。まずは、今夜、温かいものを食べてください。
編集部後記
康夫さんの言葉には、綺麗事ではない「生活の重み」がありました。介護職という「支える側」から、孤独を「支えられる側」へと立場が変わった彼の言葉は、現代社会が隠し続ける中年男性の「弱さ」を鮮烈に描き出しています。
もしあなたが今、誰にも言えない孤独や、家庭・仕事の問題で足が止まっているなら、どうか一人で抱え込まないでください。この場所は、あなたの「弱さ」をそのまま受け止めるためにあります。康夫さんのように、歪な折り紙に希望を見出すことも、靴を揃えることから始めることも、立派な「ひとりのレッスン」です。
(編集部/ひとりのレッスン)
あなたの「声」を、ぜひここに
誰にも言えない寂しさを、ひとりで抱えていませんか?
ふと立ち止まった時に見えた景色。
ここは、あなたがあなたに戻る場所です。
※お送りいただいたメッセージは、編集部にて大切に拝見いたします。