喪失の先に焼く、やさしいパン。49歳、元コンサルタントが選んだ「ひとり」の再出発

窓の外には、淡い桃色の桜が散り始め、若葉の緑が少しずつ存在感を増している。4月初旬の昼下がり、都内の喧騒から少し離れた場所にある、目黒区の静かな通り。指定されたコーヒーショップは、使い込まれたアンティークの家具が並び、至る所に配置された鉢植えの緑が静かに呼吸する、時間の流れが外の世界より少しだけ緩やかな空間だった。

店内に漂う焙煎された豆の香りと、時折聞こえるグラインダーの低い音。その奥まった席に、弘和さんは座っていた。

弘和さんは現在49歳。目黒区の住宅街で、小さなパン屋を営んでいる。落ち着いたグレーの春物のセーターを着こなす姿は、かつてベンチャー企業で海外事業展開のコンサルタントとして、世界中を飛び回っていたという鋭い経歴を感じさせないほど、穏やかだ。

「お待たせしました。今日はよろしくお願いします」

少し低めで、落ち着いた声。彼のパン屋には、ある明確なテーマがある。それは「高齢者でも安心して食べられるパン」。かつて高額な報酬を受け取り、企業の成長を助けていた男が、なぜ今、目黒の片隅で、柔らかいパンを焼くことに人生を捧げているのか。その裏側には、家族との別れ、そして「ひとり」になることを選んだ、一人の男の切実な再出発の物語があった。

家族を見つめ直した先に、パン屋という道があった

弘和さんの人生を紐解くと、そこには常に「家族」というキーワードが、痛みとともに存在している。現在のパン屋という仕事は、決して華やかな転身ではない。それは、父、妻、娘、そして母……それぞれとの関係の中で彼が失い、手放し、そして最後に手繰り寄せた、人生の「澱(おり)」のようなものを形にした結果なのだという。

「自分でも不思議ですよ。数年前までは、スーツを着て飛行機に乗って、数字と効率のことばかり考えていましたから。今の生活は、あの頃の自分が一番遠くに置いてきたものかもしれません」

弘和さんは、運ばれてきたコーヒーのカップを両手で包むように持ち、小さく笑った。彼の開業ストーリーは、よくある「夢を追いかけたセカンドキャリア」ではない。もっと泥臭く、もっと静かな、「喪失」と「再出発」が幾重にも重なった、一人の男の再生の記録だ。


21歳で父を亡くしたことが、最初の大きな喪失だった

聞き手(以下:編): 弘和さんの現在の生き方の根底には、ご家族との強い関わりがあるように感じます。その始まりは、いつ頃だったのでしょうか。

弘和さん: やはり、21歳の時の父の死ですね。当時、私は東京の大学に通っていて、広島にある実家とは少し距離を置いていました。若かったですから、自分の生活に夢中で、親のことなんてほとんど考えていなかった。そんな時、突然の連絡でした。心筋梗塞で、急逝でした。

編: 突然の別れだったのですね。

弘和さん: ええ。新幹線に飛び乗りましたが、広島に着いた時にはもう、父は冷たくなっていました。真っ白な布をかけられた父と対面した時、後悔だけが込み上げてきたんです。何も言えなかった。感謝も、これからの夢も、何も。死に目に会えなかったという事実は、当時の私の心に、取り返しのつかない「穴」を開けました。「大事な時に、そばにいないことの痛み」を知ったのは、この時です。

編: その経験が、のちの決断に影響を与えたのでしょうか。

弘和さん: 間違いなくそうですね。のちに母の看病のためにすべてを捨てる決心をした時、私の背中を押したのは、21歳の時のあの苦い後悔でした。「もう二度と、大切な人の最期に間に合わないなんてことはしたくない」。その感情が、私の人生の優先順位を、深いところで決定づけていたんだと思います。


仕事に打ち込む妻と、同じ方向を向いていた結婚生活

編: 大学を卒業後、コンサルタントとして活躍され、ご結婚もされていますね。奥様とはどのような関係だったのでしょうか。

弘和さん: 25歳の時に結婚しました。妻は3歳年上の28歳。彼女は証券アナリストとしてバリバリ働いていて、私以上に仕事に対してストイックな人でした。私たちは「夫婦」というより、お互いの人生を尊重し合い、高め合う「同士」のような関係でした。家事も仕事も完全な対等。お互いに稼いで、休日は話題のレストランへ行き、年に一度は贅沢な海外旅行をする。それが私たちの「幸せ」の形だと信じて疑いませんでした。

編: お子さんが生まれてからも、そのスタイルは変わらなかったのですか?

弘和さん: 2年後に娘が生まれました。可愛かったですよ。でも、私たちの生活スタイルは変わりませんでした。私は海外出張で月の半分は家におらず、妻も深夜まで分析レポートを書き続ける。娘はシッターさんや親族に預けることが多かったです。現在、娘は大学生になって都内で一人暮らしをしていますが、当時は「経済的な豊かさ」こそが、家族に提供できる最大の愛だと信じていたんです。でも今思えば、私たちは同じ方向を向いて走っていたけれど、お互いの顔を見てはいなかったのかもしれません。


母の病気をきっかけに、人生の優先順位が変わった

編: その順風満帆に見えた生活に、転機が訪れたのはいつですか。

弘和さん: 43歳の時です。広島で一人暮らしをしていた母に、進行したがんが見つかりました。知らせを聞いた瞬間、あの21歳の時の記憶が津波のように押し寄せてきたんです。「また間に合わないのか?」「また仕事のために、親の最期を犠牲にするのか?」と。気づけば私は、会社に退職届を出す準備をしていました。

編: 迷いはなかったのですか? キャリアの絶頂期だったはずですが。

弘和さん: もちろん、怖さはありました。でも、それ以上に「今行かなければ、一生自分を許せない」という確信の方が強かった。コンサルの仕事は代わりがいますが、母の息子は私一人ですから。私は広島に帰り、母のそばにいることを選びました。それは、これまでの「効率的な人生」から、最も非効率で、最も切実な道への転換でした。

退職をめぐって、妻との価値観の違いが表面化した

編: その決断について、奥様とはどのような話し合いをされたのでしょう。

弘和さん: ……それが、私たちの終わりの始まりでした。妻に退職して広島へ帰ると伝えた時、彼女の反応は冷ややかなものでした。「経済的なリスクを考えてるの?」「娘の学費はどうするの?」「あなたのキャリアが死ぬのよ?」と。彼女は極めて論理的に、私の判断の「誤り」を指摘しました。でも、私が求めていたのは、数字の分析ではなく、私の痛みへの共感だったんです。

編: 価値観のズレが、決定的になったのですね。

弘和さん: 何度も話し合いましたが、平行線でした。そしてある夜の口論で、彼女が放った言葉が忘れられません。「あなたがそんなマザコンだとは思わなかった。自分の人生を、もう終わった人のために犠牲にするなんて非合理的すぎる」……。その瞬間、何かが音を立てて切れました。彼女にとって親の死は「終わったこと」へのコストであり、私にとっては「今、生きている愛」だった。その埋められない溝を突きつけられた時、「もうこの人とはやっていけない」と静かに悟りました。

編: その一言が、離婚の直接的な原因になった。

弘和さん: 引き金ではありましたが、それ以前から、私たちは「自立」という名の無関心の中にいたのだと思います。私は、彼女の合理性に救われてきましたが、最後にはその合理性に切り捨てられた。そう感じてしまいました。でも、彼女が悪いわけじゃないんです。ただ、見ている景色が違いすぎただけなんですよ。


広島での生活は、看病と仕事をどう両立するかの毎日だった

編: 広島での生活はどうでしたか。東京での華やかな生活とは一変したと思いますが。

弘和さん: 実家に戻り、母の介護と看病に明け暮れる日々でした。収入は激減しました。貯蓄を取り崩しながら、前職のツテで細々とオンラインの相談業務を受ける程度。でも、不思議と不安はありませんでした。朝、母に声をかけ、顔を拭き、一緒に朝食を食べる。そんな何気ない時間が、私にとってはどんな100億円のプロジェクトよりも価値があるように思えたんです。

編: お母様との時間は、弘和さんにとっても癒やしだったのですね。

弘和さん: ええ。母の隣で、ただ静かに時間が流れていく。かつては秒単位で生きていた私が、母の呼吸に合わせてゆっくりと呼吸をする。孤独ではありましたが、それは自分自身の人間性を取り戻していくような、穏やかな孤独でした。母も、私がそばにいることを本当に喜んでくれました。それだけで、私の選択は正解だったと思えました。


母が好きだったコッペパンが、いまの店の原点になった

編: その生活の中で、なぜ「パン」だったのでしょうか。

弘和さん: 母は食が細くなってからも、コッペパンだけは喜んで食べてくれたんです。小学校の給食で食べたパンの味が忘れられないと言ってね。でも、病気が進むと咀嚼する力が弱まり、普通のパンは硬くて喉を通らなくなってしまった。「食べたいのに、食べられない」。その母の姿を見るのが辛かったんです。

編: それで、工夫を始められた。

弘和さん: はい。パンを一口サイズにカットして、母が好きなヨーグルトを塗って、しっとりさせてから食べさせてあげました。すると母が「美味しいねぇ、これなら食べられるわ」と、本当に嬉しそうに笑ったんです。その笑顔を見た時、雷に打たれたような衝撃を受けました。世界を豊かにするビジネスもいいけれど、目の前の大切な人が一口食べられる喜び。それこそが、私のやりたいことではないか、と。それが、今の店の原点です。


母の最期を看取ったあと、もう一度東京へ戻った

編: 2年間の看病の末、お母様を見送られたそうですね。

弘和さん: 46歳の時でした。最期は私の手を握って、静かに。父の時に果たせなかった「看取り」を、今度はやり遂げることができました。葬儀を終え、広島の家を片付けていた時、心地よい虚脱感の中にいました。「さて、これからどうしようか」と。私の手元に残ったのは、母が喜んで食べてくれたパンの感触だけでした。

編: そこから、東京へ戻る決意を。

弘和さん: はい。もう一度東京へ戻ろうと思いました。でも、コンサルタントとしてではなく、パンを作る人間として。母のような高齢者や、食に不安を抱える人が、最後まで「美味しい」と笑って食べられるパンを作りたい。その一念で、私は再び新幹線に乗りました。今度は後悔ではなく、小さな希望を持って。


47歳からの学び直しが、パン屋開業への第一歩になった

編: 47歳で専門学校に入学された。周囲は若い方ばかりで、勇気が必要だったのではないですか?

弘和さん: 18歳や19歳の子たちに混じって、粉まみれになっていました(笑)。でも、楽しかったですよ。かつてのキャリアなんて、ここでは何の役にも立たない。ただ、真摯に生地と向き合うだけ。パティシエ・ブランジェコースで1年間、徹底的に基礎を学びました。国家資格である調理師免許も取得しました。「元コンサルの道楽」だと思われたくなかったんです。これは私の新しい「命」なんだという覚悟がありましたから。

編: 「学び直し」というプロセス自体が、弘和さんにとって重要だったのですね。

弘和さん: ええ。一度自分を「無」にする必要があったんです。会社の名前や年収といった鎧を脱ぎ捨て、一枚のコックコートだけで勝負する。その過程で、私はようやく、自分自身の足で立っている感覚を得ることができました。


現場での経験を積み、49歳で自分の店を開いた

編: 卒業後、すぐに目黒に店を構えられたのですか?

弘和さん: いえ、まずは知人の店を時間外に借りて、試作を繰り返しました。そこで出会ったのが、フリーランスの管理栄養士の方です。彼女の協力は大きかった。栄養価が高く、かつ高齢者が喉に詰まらせない「絶妙な柔らかさ」を追求するために、何度も試作を重ねました。

編: そして昨年、49歳でついに開業。

弘和さん: はい。看板商品は「これ一つで満足できる栄養バランスパン」です。全粒粉を使いながらも、独自の手法で究極の柔らかさを実現しました。目黒という場所を選んだのは、偶然の縁もありましたが、実際に歩いてみると坂道が多く、買い物に苦労するお年寄りがたくさん住んでいることに気づいたからです。「ここでなら、私のパンが必要とされる」と確信しました。


なぜひとりを選んだのか、その答えは今の生き方にある

編: 現在、弘和さんは独身で、お一人で暮らされています。奥様への未練などは……。

弘和さん: 全くないと言えば嘘になりますが、今の生活に満足しています。妻は今、30代の会計士の恋人がいると聞きました。彼女らしい、若くてエネルギーのある選択だと思います。私は、彼女が求めていた「強くて合理的な男」ではいられなかった。私は、誰かの弱さに寄り添い、自分自身の弱さも受け入れる道を選んだ。それは、どちらが正しいという話ではなく、生き方の「成分」が違ったというだけなんです。

編: 恋愛や再婚についてはどうお考えですか?

弘和さん: 今はまだ、考えられませんね。今の私にとっては、毎朝3時に起きて、暗い厨房の中でパンと向き合う時間が、何よりも尊いんです。誰かと比べるのではなく、自分の中にある母との記憶や、お客様の笑顔と対話する。この「ひとり」の時間は、寂しさではなく、豊かさそのものなんです。


妻と娘とは、今も静かにつながっている

編: 元奥様や、娘さんとは今、どのような距離感ですか。

弘和さん: 驚くことに、最近はよく店に来てくれるんですよ。娘は大学の帰りに寄って、「パパ、これ新作?」なんて言ってパンをいくつか持っていく。元妻も、たまに娘と一緒に顔を出します。「あなたのパン、職場の高齢の役員に差し入れたら喜ばれたわよ」なんて、ぶっきらぼうに褒めてくれたりしてね。

編: 形を変えた「家族」の姿ですね。

弘和さん: はい。夫婦という枠組みは壊れましたが、今は一人の「店主と客」として、あるいは「父と娘」として、穏やかな関係を築けています。もし私がコンサルタントのままだったら、こんな風に笑ってパンを渡すことはできなかったでしょう。失ったものは大きいけれど、それ以上に、かけがえのない「手触りのある関係」を手に入れることができたと思っています。


店の立地と、地域の声がパンづくりを後押しした

編: 地域の方々の反応はどうですか。

弘和さん: ありがたいことに、少しずつ「あそこのパンは食べやすい」と評判が広まっています。近所のデイサービスの職員さんがまとめて買いに来てくれたり、杖をついたおばあちゃんが「ここのコッペパンなら美味しくいただけるのよ」と声をかけてくれたり。その一言一言が、かつての高額なコンサル料よりも、ずっと私の心を潤してくれます。直近では、電話注文による近隣限定の配達を始ました。ご高齢の方で足腰の調子が悪い日は、店まで来るのも大変ですから。

編: 地域の需要に、弘和さんの想いが合致したのですね。

弘和さん: ええ。私は母一人を救うためにパンを作りましたが、それが結果的に、地域に住む多くの「母」や「父」たちに届いている。商売としてはまだ楽ではありませんが、誰かの役に立っているという実感。これこそが、40代、50代で多くの男性が失いがちな「手応え」なのではないでしょうか。


管理栄養士とともに、やさしさと満足感を両立するパンを追い求めている

編: 今後の目標や、新商品の開発について教えてください。

弘和さん: 今取り組んでいるのは、「テクスチャー・モディファイド・ブレッド(食感調整パン)」のさらなる改良です。特殊な酵素や加工澱粉を用いて、飲み込む力が極端に弱まった方でも、まるで焼きたてのパンを食べているような幸福感を味わえる、介護専用のパンです。

編: 専門的な領域ですね。

弘和さん: 管理栄養士と毎日議論していますよ。「栄養バランスは完璧だけど、これじゃパンとしての喜びが足りない」とかね。私が目指しているのは、ただの「栄養剤」ではなく、あくまで「パン」であることです。噛んだ瞬間に小麦の香りが広がり、心がパッと明るくなる。そんなパンを通じて、老いや病の中にある人に「安心」と「食べる楽しさ」を届けたい。それが、母から託された私の使命だと思っています。

弘和さんは最後の一口のコーヒーを飲み干し、窓の外を見つめた。

「パンを焼いていると、時々、母の声が聞こえる気がするんです。『あんた、いい仕事してるね』って。その声を聞くために、私は明日もまた、ひとり厨房に立ちます。それでいいんです。それが、私の選んだ人生ですから」


編集部後記

弘和さんの人生を伺いながら、私は「喪失」という言葉の本当の意味を考えていた。40代、50代。多くのものを積み上げ、背負ってきた世代にとって、キャリアを捨て、家族を失うことは、一見すると人生の「敗北」のように見えるかもしれない。

しかし、弘和さんの歩みはその逆だった。彼は喪失を通じて、それまで背負わされていた重い鎧を脱ぎ捨て、自分自身の心の奥底にある「本当に守りたいもの」を見つけ出した。母が好きだったコッペパン。その柔らかさを追求する彼の手は、かつての数字を追う手よりも、ずっと力強く、温かい。

料理やパンづくりは、単なる職業ではない。それは、自分の過去を肯定し、大切な人への想いを形にする「祈り」のようなものだ。読者の中にも、今、孤独や生きづらさを感じている方がいるかもしれない。しかし、人生の折り返し地点を過ぎてからでも、新しい自分を育てることはできる。弘和さんの焼くパンが、誰かの明日を少しだけ柔らかくするように、あなたの「ひとり」の時間もまた、新しい物語の始まりになることを願ってやまない。

(取材・文:ひとりのレッスン編集部)


※お送りいただいたメッセージは、編集部にて大切に拝見いたします。

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ひとりのレッスン編集部

「ひとり」は弱さではない。 けれど、弱さでもいい。 人生の午後を歩む、40代・50代のあなたへ。

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